人は有限がゆえ平等は有得ない

例えばお腹が空いている全ての人に全く同じおにぎりを配ろうとする。また、おにぎりは絶対に絶えることはないとして、どんどん配っていく。だが、同じおにぎりでも配る、先(サキ)、後(アト)があり、先に貰う人は先に食べるのであろう。
欲しい人がどんどん増えると、貰える時に差があるので同じおにぎりでも不平等を感じる。
まして人生にはそのおにぎりは幾つ有るのか、また存在するかしないかでさい分からないのでなおさら不平等を感じる。

唯一平等にするのは同じおにぎりを同じ瞬間すべての人に配ること。
サンタさんみたいなもんですね。

”親”と謂う漢字を再確認

よく”親(おや)”と謂う漢字は”木”の上に”立”って”見”る”、解釈として親は俯瞰的視線からもの事を見て子を導くといわれるが、はたしてそうでしょうか。漢和辞典によると”親”の漢字の解字は別の意味を指す。「ナイフで身を切るように身近に接して見ていること。」と書いている。
親と子の間は決して俯瞰的ではなくむしろ至近的で生々しさでさい感じる位な距離となる。距離が近いゆえ、傷き合う可能性も高いとのことであろう。

”親”は”親族”の”親(しん)”でもあるのでやはり俯瞰的よりは至近的である。

差別は原動力になる

人は有限がゆえ、差別をして優先順位を決め、生きていく上では大事な原動力となる。

例えば、差別化をして品格、品質、品種をどんどん突き詰めて行くと、文化、ブランド、美味しいものになるのである。反面もあるので注意は必要。善くも悪しくも差別が大きければ大きいほど大きいな原動力になる。

天公、自然を司る神様

道教のお宮には屋根がある外に置く香炉がある。
道教の本格的参拝は6本のお線香を持ち、外向きに天を仰ぎ、「天公」一礼をしてから3本挿し、3本はお宮の中の主神に向き、膝をついてからのお願いになります。

「天公」の参拝の真意である、自然の恵み(脅威)は差別なく与えられるので
感謝と畏敬を示す一礼をするため。お願いはしなく、膝もつかない。

生きるための方針

以前も話した、生きるのは自分を構成する34億の細胞に対しての責任と、来世を信じるのであれば、徳積みをして来世のためにある。

具代的に例をあげてみましょう。
陰陽で考えると、先ず平均寿命の真ん中として、人生前半と後半と分け、それに加えて自分に対しての意欲の有無と4つに分類が出来る。

一番向いている生き方はこうなる。
①人生前半で意欲が有る人は意欲にまっしぐらに進めばよい。特にアドバイスは無いが、ペースを上げすぎるとまた、周りの人に気を配らないと挫折をしやすい。
②人生前半て意欲が無い人は人と向き合うより自然と向き合あうことがよい。とくに物作り、研究がよい。なぜなら、自然は正直であり、そこから①になるように目標を見つけるでしょう。
③人生後半で意欲のある人は人間関係をよくするとよい。例えば、後世、子孫、後輩の育成に努める。何故なら、身体と精神にギャップがあり、無理をすると病気、怪我に繋がる。物理的に弱くなったことを認識する。
④人生後半で意欲の無い人は介護、また人の後始末に関わる仕事がよい。なぜなら、来世を信じなくても、無理なく来世の徳積みがで来る。目標がどうしても見つけなく、どうしても③になれなければこれが一番よい。

善く思う差別、悪く思う差別

力の差、数の差、また五感、特に視覚は様々な差別を生む。

よく思う差は、憧れ、目標、悪く思う差は、嫉み、蔑視になる。
よく思われている例えとして、”日本製はよい”はよく思われている他との差なので日本製を買い、他のは買わない。これはごく自然であり、人は有限がゆえ、区別をして差別をする。

有限であるがため差別をする

物理的、また時間的に有限である人は取捨選択をする、またせざるを得ない。
動物も取捨選択するが、知の蓄財の代越えは出来なく、ほぼ本能からになる。
人は代越えで知の蓄財できるので、例えば、親、他人から聞いたり、メディアから、また無限増に量が膨れ上がるITからなど。

ITの知の量の有意義性は別の話として、有限の人が残す知には必ずかたよりがあることを常に注意してもらいたい。これは善くも悪くも、意図をしなくても、実体験がなくても、好き嫌いを生み、そこから差別は生まれる。

区別と差別は人の有限から

あんまり言葉のご託、能書きを語りたくないが、例えば、赤と白の違いが分かると赤と白の区別ができるようになる。それを知った上で、赤のほうが”好き”になると赤、白に価値観の差が生じるので差別になる。差別はどこから生じるでしょうか、人は有限がゆえに生じるのである。

知の蓄財が無限になったとしてもそれを処理するのは有限の人間である。