民衆主義の憲法は所詮理想主義

民衆主義の憲法の創憲も所詮その時代を反映しているに過ぎない。
例えば、アメリカ合衆国の憲法は独立からゆえの創憲なので理想は高く、日本憲法は、立案の経緯はともかく、敗戦後、天皇を含め、人々の”もう戦争は凝り懲りだ”を反映している。当時の民意の善意を反映し、たかが、されど、230年、70年に過ぎない。

人の善意は所詮人レベル

人は有限なので人の善意は所詮人の主観を色濃く反された限定的なものである。
行き過ぎた善意は大抵長続きはしない。特に政治の上では他人を批判する本人たちも同じ立場に置かれると批判される側に立たされる。人の善意は所詮そう多くはなく、立場で簡単に変わるものだ。

民主主義は所詮バーチャル

一番民意を反映するとされる民主主義の最大の”善意”でも10の3が限度であり、リアルに落とさないと所詮バーチャルである。
現在の民主主義のような10の10の争いでは成り立たない。
有限である人が10の10を掲げ、民主主義を語るのは所詮無理がある。
せめて実現できる”善行”10の2以下にしないともたない。

善意と比べ善行は絶対的に低効率

”行え”が100%”善意”であっても10の3。それを”善行”にするとまた更に効率が悪い。
前回述べたが、よくて3の2。
”善意”はいわばバーチャルの世界、”善行”はそれをどこまでリアルな世界の落としこむのが大事。ただ、よかれと思うことが逆に働く場合もあるので注意。
例えば子のために仕送りしたが、それを子が遊びに使ってしまうとか。しかも子に”あんたのせいでグータラになった”とか。男女関係はヒモ、社会保障は不正受給、国家政治はチェンバレンとヒットラー、中国と北朝鮮などなどにも当てはまる。

社会10の2は個人10の2より

個人の1/3は活動、1/3は寝る、1/3は”行え”は社会にも当てはまる。
1/3は”意思疎通”、1/3は”基礎維持”、1/3は”政治”になる。

社会の1/3”基礎維持”はインフラ維持など、個人の眠るに等しい。

社会の1/3”活動”は集団としての”意思疎通”と統制、個人で置き換えると身体の制御。民主主義は民意、独裁者は1人の決断で全員が従う。

社会の1/3”政治”は社会として何を目指す。個人の行え。

政治、民主主義も独裁者も平均66点の合格点をつけると個人の集合体である社会も結局10の2の法則に合致する。