戦争の罪の有無は語るべからず

戦争でよく”罪のな無い多くの民間人が死んだ”と言うが、では前線に行った兵士たちは罪人ばっかりだったでしょうか。

戦争になれば、敵国からすれば敵は全て罪人であり、戦争が長引けばその子供もいずれは戦力とみなされる。また、戦争の首謀者も悪人とは限りなく、善かれと思ってやっているかも知れない。善悪の見境が無くなるのは戦争である。

義を背負う難しさ

”義”は”我”をいけにえの”羊”のように捧げる。
”議”はそのごんべん

代議士は多くの人に選ばれ、その代わりに議する人。
多くの人を代表すればするほど義は研ぎ澄まされ、その代表者の本性、本心と乖離が生じる。
代議士も人間なのでその乖離は仕方がないと思うが、人の代わりに議する者ならせめて自分の行動を自分の言葉で説明する必要がある。そうしないと代議士としての大義は務められない。

同じように他人の代わりに議する弁護士はそれほどの大義を背負わないので責任も限定的であんまりたたかれない。

民主主義の権利と責任

北朝鮮の憲法にはチュチェ思想、イランの憲法にはイスラム法、明治憲法には天皇制を普遍的で変えることは出来ない根幹はありますが、民主主義の憲法にそれはないはず。例え民の意志で民の主を放棄したとしてもその選択筋は残さなければならない。
民が民を常に主とするならば民の権利だけではなくその責任も担う必要がある。

民主主義憲法唯一の存続意義

民主主義憲法が国家の形態としてあり続ける唯一の意義は”常に民意に晒されること”。

ひと時代の一時の一握りの人が創った憲法は未来永劫の民意を象徴しない、ありえない。例え、善意のもとで創建された憲法であっても固定をすればそれはもはや憲法ではない。民意があっての憲法、その逆ではない。

民衆主義の憲法は所詮理想主義

民衆主義の憲法の創憲も所詮その時代を反映しているに過ぎない。
例えば、アメリカ合衆国の憲法は独立からゆえの創憲なので理想は高く、日本憲法は、立案の経緯はともかく、敗戦後、天皇を含め、人々の”もう戦争は凝り懲りだ”を反映している。当時の民意の善意を反映し、たかが、されど、230年、70年に過ぎない。