生きる動物

自然界の動物は腹が減ると食を探す。それも出来なくなると死ぬ。

道教の考えでは動物に唯一課せられた”心”(行え、徳積み)は生き続けて繁殖すること。この妥協がない徳積みを生死として幾回重ねていくと人として生まれ変るのだ。

生きるとはなに?

以前、人の成り立ちとして3つの要素、魂、魄、心(行え・志し)があると話しました。死ぬと3つに分かれ、”魂”は”輪廻転生”よりリサイクルされ、”魄”は”地”でリサイクルされ、心は”行え・徳積み”として”天”で評価され、来世の運命を決める。道教の宗教的生きる目的の概念である。

では宗教抜きで考えて見よう。人には約30兆の細胞があり、それら1つ1つの細胞は私たちの意志と関係なく一生懸命生きようとしてくれている。私たちも30兆の細胞に意識を向けで栄養を与え、衛生を保ち、健康に生きていく義務がある。生きるのは自分を形成するその30兆の細胞と共に生きていくため、これこそが生きるの根底にある由縁。

子が親に対しての認識

親が憎い、また好んでこの家に生まれた訳ではない、と相談を受ける。

別に親の方を擁護するわけではないが、唯一自分に命が与えてくれた存在に感謝する必要がある。良くも悪くも、その瞬間から子は人としての徳積みが出来るようになる。

以前も話しましたが、親も子を選べないのでお互い様と思うべき。へその緒が切れた瞬間からそれぞれ別の存在であり、別々の徳積みを課せられる。人生の苦を親のせえにするよりはこの親のもとに生まれるべきして生まれたと考えたほうが妥当。縁があっての親子、ゆえお互い寄せ合って生きていった方は絶対的に有利である。どうしても親が許せなく親から離れるのも一つの立派な選択。子が親から離れるの必然であり決して悪くは無いが、時期によったは人より何倍の覚悟も必要になろう。

子は親を許す心を持つべき。許すことは親のためよりは自分のための徳積みになるのだ。

生きる目的は日々にある

生きても意味がない、生きる目的がないとよく相談される。
道教として、生きる行為そのものが徳積みであり、他人に評価される意味をもたせる必要はない。
道教の道徳の概念からすると、もし気持的に余裕があればその余裕を徳積みに変えていけばよい。徳積みの一番の基本は日々の挨拶。”こんにちは”、”ありがとう”、”たすかります”、身近の人にその余裕を分かち合えるだけでよい。決して背伸びすることは必要ない。

無条件でこれを出来るかどうかは1つの目安。挨拶をしても返事がなく、不愉快と思う時点で徳積みではなくなるのだ。

善行を徳積みに変えて行く

多く徳を積みたい人は善行を徳積みに変えて行く必要がある。
これは余裕のある人がすること。余裕がない人は無理な善行よりは自分の身近で出来る日々の徳積みを確実にしたほうが賢明だ。

ではどうやって善行を徳積みに変えていくのであろう。
簡単に戻せない状態を自分で追い込む必要がある。
何回も上げますが、子供を生むのは1つの例である。1つの命を増やした、徳、だがそれに伴う責任は不退転の決意で踏まえての徳積みだ。

都知事選話題のI氏は最初善行の気持ちは立派で誠実であってと思いますが、徳積みの覚悟は無かったようだ。

徳く積みと善行の違い

”善行”は余裕があるときにすること。気持ちが向いた時、必要と思われたとき、始めやすいし、終わりやすい、プレッシャーはない。一種の趣味に近い。やると損は無いが恩義せがましくなると逆によくない。

”徳く積み”はしないといずれかは困ること。やれば自分のためにはなるがやらないと困るのも自分。プレッシャーはどんどんます。夏休みの宿題のようだ。単純な例を挙げると、歯を磨かないと虫歯になるなど。日々生きているだけでも立派な徳く積みになる。

親子の関係に持つ徳く積み

子を産む徳く積みは純粋かつ崇高であるもう一つ根本的な理由は子はまたその子の子を持つ可能性があるからだ。子孫を残せる可能性は大事。

子を産めないが崇高に近い徳く積みをしたい場合は親子の関係を持つべし。例えば里子を養う、または他の親が棄した役割を拾うこと。だがこの行為は人為的であるがため純粋ではない、また子との血の繋がりがないゆえ、子からは作為的と思われることも多く、維持していくのは実の親子より大変だ。

※因みに、”子を産めば崇高かつ純粋な徳く積みができる”からといい、子供をいっぱい生めばよいと解釈してもらってもいのは、生みたくても生めない人がいるからだ。子供は何人生んでもそれはおめでたいと思うが、現実はあるのでほどほどに。

子を持つのは最高の徳く積み

子が産めるにも関わらずお金が掛かるから産まない選択をする人は増えているとか。どうせ老後、みてもらえる保障もないし、今の生活スタイルを変えたくないし、などの理由を聞く。損得で考えると産まない方が得であろう、が徳く積みに関しては子を持った方が有利だ。

徳く積みは道教の根幹にある。
1人で純粋、かつ崇高な徳くを積めても1人分の徳くに過ぎない。何倍、何十倍の徳くを積みたければ他の人と関わる必要はあるが、他人との徳く積みに別々の損得の絡みがあるゆえ純粋ではない。人として1人以上の最も純粋かつ崇高な徳く積みは親子の関係、なぜなら、子は親の分身、自分が自分に徳くを積ましているようなものだが、子は親の分身がゆえ容赦なく親を攻めたてるのであろう。

親が子に対しての認識

よく、子は親を選べないといわれますが同じ様に親は子を選べません。親は子を生むか生まないかは選べますが、どの様な子が授かるのかは選べません。科学より病気のスクリーニング、また未来には能力、性格までも選べるかもしれませんが、子はへその緒が切れた時点で別の存在です。親はいずれかは子は対等に向き合わなければならない。子を産んだ親は子を生かせる責任はありますが、子は親の言う事に従わなければならない子の責任は厳密にはない。子は親に従うのは子に有利なため、また子自身の徳積みのためのみである。

善行について

善行を頑張るのは現世のためにもなり、来世のためにもなりますが、むやみに善行をするのとはまた違います。自己満足の善行、押し付けがましい善行は受ける側の自助能力をそぐゆえ、よくない場合も多くあります。ケースバイケースで難しいですね。善行を尽くすのであればまずは自分の周りの人からはじめたほうがよいと思います。