人と動物の違いは蓄財力

世代を超えての蓄財(物、知)は、善くも悪しくも、人が一番長けている。
動物も”物”を蓄えるが、せいぜい越冬のためのどんぐり、蜂蜜、脂肪、たかが知れている。
動物の”知”の蓄えはせいぜい飲み場、越冬地など。例えば代々母象に伝わる飲み場はよく知られている。

人と違い、動物の蓄えは殆ど本能から生じる。

理性はなに

社会に住むには社会の秩序に従う理性は必要、だが社会の理性は時代、教育、政治、宗教により変わる場合もあるので注意は必要。

道教はその変化する社会の理性を多くは語らない。理性は個々が自分で高め、自分で修めるも。個々が個々の自覚した理性を社会の一員として担い、自然と社会もよくなっていく。決して他人と比べたり、他人を抑制するものではない。

人と動物の徳積みの違い

先ず分かってもらいたいのは人も動物も”心”(行え)はある。
神からは人にも動物にも同じ様に生死の徳積みを課せられるが、
人として1日過ごすのと動物として1日過ごすことは全く別ものである。

動物は生まれた瞬間からほぼ自力で生き、老いると死ぬ。他力は望めない厳しい徳積み。

人は社会をつくり、捨てられた子は里子に、老人は介護され、無駄と考えがちだがこれは動物には出来ない、人としての徳積みである。社会全体で取り組むと、社会全体の徳積みになる。

戦争は理性のもとで行なわれる

戦争は理性から始る。
大勢の人を動かすときは理性の名の下でしか出来ない。
教育、歴史、宗教、政治が人を束ねる道具として使われる。

”我こそ正義だ”で始まり、負けると”損を取り戻す”、”我こそ大義があり負けることはない”と負けへの恐怖から無駄死にをする。戦争の終始には理性がある。単独の狂乱とは違う。

戦争は勝てば正義、負ければ狂気だけである。

人と動物の違いは理性ではない

人と動物の違いは”欲”を抑える”理性”の有り無しと言うがこれは間違いである。

そもそも道教では、神でない人が人と動物の”心”(行え)を比べるべきではない。
動物の死への抵抗は立派な徳積みであり、”理性のない欲”として語ってはならない。また理性がなくなるとその人は動物になるでしょうか、そうではない。例えば、意識のない重複障害のある人、認知症の人は生き続けるのはなぜでしょうか、決して理性で説明するものではない。

”理性”と言った主観的な基準の考えは多くの差別を生んできた。

欲は生きる原動力

幾つかの宗教は”欲”を”悪”または”必要悪”と考えるが、そうではない、”欲”は生きる原動力として道教は考える。”欲”は”魂”が”体”(魄)を突き動かす力。陽が陰に転じる力。

身だしなみを整えることも、また体を限界までに鍛えるオリンピック選手たちも欲がないと出来ない。生きるため、自分をよくしたい、高めたい欲は常に必要。欲がなくなると、”無気力”になり、最悪、自殺をまねく。

自殺の思いは何処から

人の自殺したい思いは何処から生じるでしょうか。脳からか、病気の患部からかでしょうか。死には幾度か立ち会ったが死の思いは”体”から生じると感じない。人の死にたい思いは”体”(魄)ではなく、”心”(行い)から生じる。

もうこれ以上生きたくない気持ちは人にはあるが動物にはない。
動物にも自殺があるとも言われる、浜辺に打ち上げられるイルカ(迷い込み)、自らの体を子に食わせるクモ(DNA、生きる術)、だが自らの思いで自殺する率が一番高いのは人。

自らの思いによる自殺をするのは人の”心”(行え)、よってこれを変えるのも人の”心”(行え)。

生きる動物

自然界の動物は腹が減ると食を探す。それも出来なくなると死ぬ。

道教の考えでは動物に唯一課せられた”心”(行え、徳積み)は生き続けて繁殖すること。この妥協がない徳積みを生死として幾回重ねていくと人として生まれ変るのだ。

生きるとはなに?

以前、人の成り立ちとして3つの要素、魂、魄、心(行え・志し)があると話しました。死ぬと3つに分かれ、”魂”は”輪廻転生”よりリサイクルされ、”魄”は”地”でリサイクルされ、心は”行え・徳積み”として”天”で評価され、来世の運命を決める。道教の宗教的生きる目的の概念である。

では宗教抜きで考えて見よう。人には約30兆の細胞があり、それら1つ1つの細胞は私たちの意志と関係なく一生懸命生きようとしてくれている。私たちも30兆の細胞に意識を向けで栄養を与え、衛生を保ち、健康に生きていく義務がある。生きるのは自分を形成するその30兆の細胞と共に生きていくため、これこそが生きるの根底にある由縁。

子が親に対しての認識

親が憎い、また好んでこの家に生まれた訳ではない、と相談を受ける。

別に親の方を擁護するわけではないが、唯一自分に命が与えてくれた存在に感謝する必要がある。良くも悪くも、その瞬間から子は人としての徳積みが出来るようになる。

以前も話しましたが、親も子を選べないのでお互い様と思うべき。へその緒が切れた瞬間からそれぞれ別の存在であり、別々の徳積みを課せられる。人生の苦を親のせえにするよりはこの親のもとに生まれるべきして生まれたと考えたほうが妥当。縁があっての親子、ゆえお互い寄せ合って生きていった方は絶対的に有利である。どうしても親が許せなく親から離れるのも一つの立派な選択。子が親から離れるの必然であり決して悪くは無いが、時期によったは人より何倍の覚悟も必要になろう。

子は親を許す心を持つべき。許すことは親のためよりは自分のための徳積みになるのだ。