自殺の相談はたまにありますのでお答えしたいと思います。
自殺は残された家族と周りは大変のと、本人にも百害あって一利なし、むしろ逆効果です。
死んで、新たにスタートをもらえる、そんな甘いことはない!!!
人の3つの要素、”魂”、”魄”、”心”、の”魄”(”物理的な”体”)を捨てるのは物を粗末する大罪であり、”行え”としても大罪です。
宗教を持って苦しむ人を脅すことはあんまりしたくないが、自殺をして、輪廻転生で生まれ変わっても必ず今より酷い所(運命)に行かされます。自殺は再スタートになるとの考えは大間違いです。この世は広く、悪い所(運命)よりも、さらに悪い所(運命)はいくらでもあります。自殺をして今の一瞬を逃れても、悪夢はそのままそっくりプラス大罪を犯した罰、が来世の現実として続きます。
辛いけど、是非、無い所から気力を振り絞っても、人に助けを求めるなど、プライドを捨てるなど、生きることをあきらめないこそが唯一の方法です。現世(残された周りの人の迷惑)、来世(自分の迷惑)を考えると自殺だけは絶対にやめてもらいたいです。
検察キーワード:死ぬ、自殺願望、命を絶つ、希望がない、リストカット、ビルから飛び降りる、いじめ、術がない、後がない、相談、相談できない、助けて、本当は死にたくない、分かってもらいたい
自殺したら来世苦しむとかよく聞きますが自殺した人に直接聞いたんですか?聞けるわけないですよね
ただの宗教、オカルト的発言ですよね
自殺まで追い込まれてる人をさらに追い込む事になるの分からないんですか?
自殺止めるためにこんなふざけたこと書いてるならやめていただきたい
自殺しようが殺人しようが寿命まで生きようがどうなるかわ死んだ人しかわかりませんよ
それとも科学的に証明出来るんですか?
①自殺して“楽になった”と死んだ人から直接聞いたともない。
②死んだら苦しみが無くなる科学的な証拠もない。
③苦しいなら”死んでもいいよ”とは言えない。
自殺を思い止めるためであれば宗教も一つの手段と思います。
自殺は自分の意思、殺人は他人の意思、寿命は所謂“天”の意思、せめて自分の意思で死ぬのは止めた方がよいと思います。
因みに、“自殺したら来世苦しむ”と言っているのは世界の主な宗教であり、オカルト的な発想ではない。むしろオカルト的の方が自殺・集団自殺を誘発した例が多い。
私には自殺願望があります。スピリチュアルカウンセラーの方のセッションを受けたところ、私は前世を自殺で終えていることが分かりました。今、本来なら健康な子供が私のお腹の中で障害を負ってしまい(妊娠中の薬と胎病ダブルの障害)自殺したくなるような窮地に陥っていますが、それも自分で決めて生まれて来ている、これはチャンスなんですよ。と、言われました。自殺のカルマを断ち切るためのチャンス…良く言えばそうだが、前世で自殺していれば私みたいに今世自殺したくなるほどの悲惨な状況に陥らなければならないということなのですね。(今世の)私は何も悪いことなどしてないのにと、悔しくてなりませんが、過去世のことは、変えようもありません。また、それとは別に私は自分の母親を過去世で殺しており、同時にそのカルマも背負っています。年金のほとんどない母親と将来同居を余儀なくさせられるかもしれない状況に陥っています。前世の自分は今世で、今世の自分は来世に影響するということを痛いほど思い知らされています。今世の自分は、自殺したくてもなかなか出来ないという状況です。夫も子どもも、私が死ねば生きていけないかもしれないからです。親が亡くなっても生きていけるようにしておいてやらなければならないからです。私という自殺者は、来世結婚して子や孫に恵まれて生きるという人として普通に望む幸せも当然得られませんでした。自殺なんて出来る事ならしない方がいい!と書きながらも、あまりに悲惨な自分の境遇ですから、今後耐えられず自殺してしまうかもしれないと悩んでいる自分がいます。また、私のように今世自殺したいと苦しんでいる人は既に前世で自殺しているかもしれないとも思います。
人は生まれた時、自分の将来を悲観して自殺することはない。
あの5歳で実の父に虐待死された女の子でさえ必死に生きようとしていた。
決して特別に意志が強い子と思わない。
では人は何時から自殺を考えるようになるのかを考えてもらいたい。
世界はひろし、例えば、内戦のため、難民キャンプに強いられる人達とかも生きようとしている。
他人と比べたり、以前の自分と比べたりとかしているから悔しい気持になる。こんなもんかと思って生きていけばよい。
自分の考え方一つで変われるはず。
前世自殺したから、また困難があるから必ず自殺に陥るわけではない。
前世について
以前も以下を投稿しました。
”前世の行いは過ぎたことなので今から何か出来るわけではないので無意味・・・全ての前世が具現化して現世になっているので、”現世を頑張ればよい”、(道教)は現世利益の強い宗教です。
来世について
よって、道教の考えでは日々、刻々生きていくだけで徳積みになり来世のプラスになる(注釈:頑張っていれば、願わくば現生で好転するかもしれない)。辛いけど、是非、無い所から気力を振り絞って、人に助けを求めてください。
世間は世知辛いと思うかもしれないが、世間は社会として手を差し伸べる公的機関は多々あります、例えば親は介護保険、子ともは児童福祉などがあり、フルに活用してください。生きることをあきらめないこそが現生・来世を良くする唯一の方法です。
これだけの人(夫、子、親)があなたを頼りにしているので、あなたが一日でも長く生きると人の何倍も徳を積んたことになる。
来世の徳積みを信じなくても、最後まで自分の人生を見届けるのを生きる目標にしてもらいたい。
苦しんだ人を救わず自殺させておいてもっと不幸にするとかどんだけ
サタンの宗教じゃん
救いについて
事故で足を無くし、アスリートなのでその足を戻せば救いになるでしょうか。
病気で妻を亡くし、孤独だからその妻を生き返らせれば救いになるでしょうか。
全の願いを叶えればそれが救いになるでしょうか。
サタンに魂を売れば叶ってくれるかも知れませんが、道教はそう甘くない。
道教は摂理を説く宗教、人気取りではない、あしからず。
道教の自殺について
人生の苦しみに耐えて生きている人も多く、そう考えると自殺はよい行えとは思えない。
自分の苦しみは特別と思わないで苦しみを何とか乗り越え、
現世での好転を信じ、最悪その頑張りは来世に繋がるとしている。
平等と道徳を説き、絶望に希望を与え、
盲信を要しないこの考え方は至って健全と思うが。
どう努力しても常に孤独。常に寂しく惨めでもう生きたくない。持てる人は何でも持っていて、私は何一つ手に入らなかった。努力してもいつも人に好かれず上手く行かないのかわからない。親には虐待されてきた影響からまだ抜け出せない。自分より何十年も若い人達がみな結婚していく。私だけ何も変わらない。何をやってもやらなくてもモテないし友達もできない。こんな人生もう嫌だと拒否する自由すらないなら、ただの嫌がらせじゃないか!
虐待をされ、虐待が連鎖を続ける人もいるし優しくなる人もいる。
結婚に嫌気がさし蒸発、また家族を殺す人もいる。
物があってもその物が親戚、家政婦に盗まれる心配をする人もいる。
モテてモテてモテるために拒食、またカッコいいから麻薬に手を出す学生もいる。
不幸、幸も含め、主観的な所が多く、
あんまり回りとか自分の過去とかと比べない方が良い。
自分の苦しみは特別と思わないで、一人ではなく社会の様様な仕組みも使い、この苦しみを何とか乗り越える努力をして現世での好転を信じ、最悪その頑張りは来世に繋がるとしているのが道教。
同じ苦しみに耐えて生きている人も多くいるので
やはり自分の命を自分で絶つのは良い行えではない。
即身仏は自殺ですよね??
思想、政治、宗教を目的とした”死”。
その思想、政治、宗教内には価値あるでしょう。
以上の死と悲観死を比べると、前者は”陽”の自殺に属し、
後者は”陰”の自殺に属す。
生きて行くのも苦しいし、自殺することもできない。どうすればよいのかわからない。
もしも自殺できたとしても、痛いし苦しいし、今以上に苦しみが永遠に続くなんて、来世でもっと苦しむなんて耐えられないです。
前世の記憶がないので、来世の自分が頑張れば負のサイクルを絶つことが出来る、永遠ではない。来世が今より不利を被らないため今、少しでも頑張ってもらいたい。親が子のために頑張るようにと。記憶は無いから意味がない、来世を信じないとしても苦しさから逃れるための自殺は良くない。
自殺を考えるほど苦しんでる人や大切な人を自殺で亡くした人への当てつけのような内容ですね。
正しくそう、自殺を考える人は先ず大切に思っている人がいると考えてもらいたい。
こんな後ろ向きのコメントに返信して頂きありがとうございます
幸福度の高い国ほど安楽死制度が整ってますね。暗く恐ろしい沼に頭を押さえられ沈められているような生を生きている人が大勢います。この地獄は誰にも救えない。救えないのに死ぬことを許さないなんて、人殺しと同じくらい残酷な行いです。本当に魂を救いたいと願う方なら、安心して死ねる世の中を作ることが絶対に必要だと理解できるはずです。
ネットの情報、
2016年10万人あたりの自殺者率・・・幸福度ランキング、
上位をよくしめるフィンランド15.9人、下位をよくしめるアフガニスタン
4.7人。ちなみに日本18.5人。
幸福度と自殺率は関係ないと思うが・・・
安楽死制度は政治・医学なので幸福度とは関係ないと思うが・・・
道教的に幸福度を考えると、
幸福度は”陽”を測る指標、
”陰”に生きる人たちは測れない。
”生きているのが地獄だから死ぬと楽になる”
と言えない以上頑張ってもらうしかない。
自分の苦しみは特別と思わないで、一人ではなく社会の様様な仕組みも使い、
この苦しみを何とか乗り越える努力をして現世での好転を信じ、
最悪その頑張りは来世に繋がるとしているのが道教。
同じ苦しみに耐えて生きている人も多くいるので
やはり自分の命を自分で絶つのは良い行えとは言えない。
現状から逃げても逃げても逃げ切れない。自殺は卑怯な行いですか?自分勝手だよね本当に。それでも死にたいとなれば、救いようも無い。永遠に続く、そう堂々廻りだ。
何から逃げているのは分からないが、他人から逃げている、
自分から逃げている、社会から逃げている。
他人から逃げることはない、警察と相談する、もしくは相手を説得する。
自分から逃げることはない、自分を変える、もしくは考え方を変える。
社会から逃げることはない、社会は受け入れる、もしくは一票を投じる。
逃げる事は悪いと言ってない、死に逃げるのは良くないと言っている。
何故なら、唯一逃げられないのは死、死から逃げる志しが大事。
明日、生きたくても生きられない人の事を考えると自殺はどうなんだろう。生きてればなんとかなるかもしれないし。そして東日本大震災で、お亡くなりになった方の気持を考えると、命とはなんだろうと真剣に考えてしまう。自殺して後悔するより、生きて後悔した方がましだよ!と言うでしょうね?
死んでからは後悔できない、やり直せない。
後悔は生きている証し、臆することはない。
また後悔は良くなりたい証し、同じ轍を踏まないことが大事。
東日本大震災について
正しくそう、以前も書きました。
”死にたくない人、また死んでもらいたくない人も
簡単に死ぬこの世の中。
自分で自分の命を断つのは贅沢と思ってもらいたい。”
また、こうも書きました。
自殺は自分の意思、殺人は他人の意思、寿命は所謂“天”の意思、
せめて自分の意思で死ぬのは止めた方がよいと思う。
死ぬ以前に、この宇宙から消えてなくなりたいです。私という存在を存在していなかったことにしてもらいたいというか、宇宙に綺麗さっぱり消去してもらいたい。生きることがしんどい、何もしたくない。希望も無い。生まれてきたくなかった。私という意識体、魂をつくった存在にものすごく腹が立つ。
人類はただの星屑、偶然の産物と思うなら、
だれ一人、意義は無く、希望もない。
道教的、人は他と違い意志があり、
その意志を詳細に理解する能力もある。
”しんどい、何もしたくない”と謂った気持ちを持つのも人の証。
だが、これらは生まれ持った考えではない。
例えば、障害もつ子供は生きようとする、親は悲観的だが子供の
生きたい気持ちを思い起こし奮闘する。
上手くいく行かないかもしれないが生き様は残る。
生きるのはやはり自分が主導しないと。
自分と自分の存在を成り立つ60兆の細胞と共に生きていくのみである。
以前の投稿
”自分の苦しみは特別と思わないで、一人ではなく社会の様様な仕組みも使い、
この苦しみを何とか乗り越える努力をして現世での好転を信じ、
最悪その頑張りは来世に繋がるとしているのが道教。
同じ苦しみに耐えて生きている人も多くいるので
やはり自分の命を自分で絶つのは良い行えとは言えない。”
この説得の仕方は寧ろ逆効果
人間社会全体の事を考えれば正論ですが、死にたい状態になってしまった弱き個人の心には響かない言説だと思います。
自殺を諌める論拠は大別して2つだと思います。
美醜論と損得論。
本来は、前者一本で行くべきなんです。
(生存競争で劣位にある人が)最期まで生き抜くのは大変だ。だけどそれが人としては美しい。ただ、勇気も要る。
そして、それを伝えるのは骨が折れる。
だから安直に「自殺してもリセット出来ない。やるだけ無駄。得しない。」と言う損得論が出て来るのですが、全文の流れから、「あ、ここの箇所後付だな」と気付かれてしまうのです。
後付でも、自殺さえ止められたら、それでも良いとお考えかもしれませんが、思想に一生の身を捧げられているのならば、もう一段の思想深耕を期待いたします
理論はなるべく”個”にも”全”にも当てはめるのは理想的、頑張る!
美醜論は”生前”に軸足、損得論は”死後”に軸足。
自殺に追い込まれている人は後者の方が該当すると思うが・・・
「あ、ここの箇所後付だな」のは何処を指すのは不明だが、
コメントの美醜論として”人としては美しい。ただ、勇気も要る”も
結構後付けと思うが・・・
自殺が逃げの選択肢であること、悪手であるのは物質主義的にも理解できますが、宗教としてあなたの言説を見るときに疑問が残ります。
あなたがどう人間を、他者を認識しているかはわかりませんが、基本的に人間とは弱い生き物だと思います。他人にとっては些事とされる理由で死を選んでしまう人間も多いです。それでも、崇高とは呼べないまでも彼らなりの絶対的な意思決定の果てに選択したはずのことです。
さて、もし神や超次元的な理が私たちを管理、監督しているのなら。
なぜ苦しみから逃げた人に、さらなる苦しみを与えようとするのでしょうか?
それを罰として与えるのならあまりに人間的だとは思えないでしょうか。だって現時点で越えれなかった壁を、さらに高くするんですよ。
その壁を越えれる因果がない。
となれば、これは自殺をしてしまう弱い人間とそうでない強い人間の振り分けなのでは?とも考えてしまいます。言うなれば選民思想ですよね。
もちろん宗教の興りから考えれば、選民思想から完全に脱却した教えは少ないと思います。それをあげつらうつもりは一切ありません。
しかし、そういった側面を無視、気づかずに一辺倒に自殺を悪と説くあなたの徳はいかほどでしょうか。
自殺を考えている皆さん。
私にも、きっと多くの人にもあなたの苦しみを正確に理解するのは難しいと思います。それでも少しおすそわけしてもらえれば、本当に少しくらいは寄り添えるものです。
極端な話ではありますが、苦しみの多くは自身の執着から生まれるものだと私は思っています。
見えぬ世界への旅立ち、肉体への加害への恐れすらも乗り越えれる方々なのですから、今少し、自分が何に囚われているのか考える時間を与えてあげても良いのではないでしょうか?
自死という選択肢まで見出だしているのですから、皆さんに定められたことなどなにもないし、自由になっていいと思うのです。
自分を対象にするのであれば、死ぬのは好き勝手した後でも遅くないと思います。
”苦しみから逃げるな”とは言っていない、”死を以て苦しみから
逃げるのは無駄、逆効果”と言っている。
苦しいから”死に逃げていいよ”と言えない以上、宗教も自殺を防ぐ
一つの手段。
コメントの前半は弱い人が自殺すると。
コメントの後半は強い人が自殺すると。
どっち?
まず、弱さ、強さと自殺は関係ない、
弱くても一生懸命生きている人は多い。
生き続けるのも勇気が必要、強いのである。
ちなみに、人の”弱さ”は自然に対しての圧倒的な弱さと自分に対しての弱さ。
神は公平であるが、人は短命な存在なのでそうは感じない。
神が“管理、監督”している以上フェアでないと。
コメントに“現時点で越えられなかった壁を、さらに高くするのですよ。その壁を越えられる因果がない。”は以下で説明できる。
コメントに“他人にとっては些事とされる理由で死を選んでしまう人間も多いです”と。まさしく、その通り、自分が感じるこの苦しみは“些細”と思っている人が多くいると。もし、同じ苦しみで大半の人が死を選ぶのであればそれは初めて“些細”ではなくなる、なぜなら“些細”と言われなくなるから。
コメントの後半は死ぬ行為を美徳している、また、最後のコメントは的はずれ、犯罪を誘発するので注意。
当初2016から以下をブログの最後に書いている(最後めで読んでね。)
“・・・・辛いけど、是非、無い所から気力を振り絞って、人に助けを求めるなど、プライドを捨てるなど、生きることをあきらめないこそが唯一の方法・・・現世(残された周りの人の迷惑)、来世(自分の迷惑)を考えると自殺だけは絶対にやめてもらいたい・・・”
は宗教抜きでも健全な考えと思うが・・・
生と死、それらは一体なんなんでしょうか?
人がどう生と死と関わればよいのかを述べたい。
道教は生死を陰と陽に結びつける。
万物万象は陽から陰に移りゆく、川が流れるようだ。
陽を常に生み出さなければ陰へと移りゆく。
自然は太陽、熱などで陽を生み出す。
人間は陽を生み出すためには陽の行動が必用。
人が住むこの陽から陰に移りゆく世界、陰の行動、“自殺”、“壊す”などは陰のバイアスが掛かっているので簡単、人の陰の行動を加えなくても陰へ移りゆく。逆に陽の行動、“生る”または“作る”などは努力が必要、水の流れに逆らう人の陽の行動は道教からすると陰の行動よりは道徳的。
他人や過去の自分と比べて惨めになるなんて理由で自殺する人はほとんどいませんよ。多くの自殺者は精神や体の健康を失い激痛に耐えた挙げ句、苦しみ抜いた上の絶望の末に死を選ばざるを得なくなり死ぬのです。ブログで発信している方だと思うのですが、ブログでは自殺志願者の苦しみにこたえるなんてことはそもそも出来ないことだと思います。ツールとしてブログでは不可能です。ちなみに私はちょっとまえまで体調が悪く、希死念慮が収まらなかったのですが、入院加療してやっと調子が上向いてきて死にたい気持ちが収まってきました。二十年以上苦しんでいます。ブログを書いている方が理解していないのは、死にたい人はそもそも病気なんです。死にたい人の相談にのれるのは、プロの聖職者か医療従事者しかいません。理屈だけしかブログでは伝わらない内容だと思います。
参議院が出しているデータを参照
https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2007pdf/20070907079.pdf
※古いかもしれないが、ネットにあるデータ、プロが集計したものだと思う。
以上、中の図を参照しながらコメントに答えたい。
人の弱さは自然に対しての圧倒的な弱さ、例えば天災、飢餓、疫病、老いなど、
自殺のみに絞ると60歳以上の自殺の最大要因は健康問題、つまり病気・老い。
60歳以下の最大要因、経済・生活問題なのは若いほうが病気から治る可能性が高いのであろう。注。図表8 年齢及び原因・動機別自殺者数
コメントを書いた方の年齢は不明だが自殺せずに自殺志願・病気を克服したことは喜ばしい事。
では自殺の第2要因経済・生活問題を述べる。
コメントに“他人や過去の自分と比べて惨めになるなんて理由で自殺する人はほとんどいませんよ。”は間違いである。何故なら、自殺率は景気が悪くなると高くなるからである。
注。図表6 経済・生活問題による自殺者数と完全失業者数の推移。
自殺者数と完全失業率の推移は酷似しているのが分かる。
例えば、職を失い収入が激減、ローンが払えなくなり、生活水準を変えざるをえない。当初払えると思って組んだローンは払えなくなり、当初維持ができると思って生活水準は維持できなくなる。つまり以前の自分、世間体と比べ惨めと思い“精神や体の健康を失い”自殺をするのである。日本の様に絶対的貧困ではなく相対的貧困であれば容易の起こることそれがデーターで示されている。
ですが、世間は世知辛いと思うかもしれないが、世間は社会として手を差し伸べる公的機関は多々あり、フルに活用してください。一日で長く生きてもらいたいからである。
もちらん公的機関なので社会に戻れる努力は要求されるし、戻れる努力をしてもらいたい。
コメント:“ブログでは自殺志願者の苦しみにこたえるなんてことはそもそも出来ないことだと思います。ツールとしてブログでは不可能です。”
“自殺志願者”の家族でさえ応えるのが困難なのに、当ブログに対しての意見は重々甘んじるが、人として言葉が唯一の伝達方法なので“苦しいだから自殺してもいいよ”と言えない以上、努力し続けるしかない。ブログを見て“無理”と思えばそれは私の力不足、言葉の力不足であるが、自殺する人も、私の意見を読んで自殺をしない努力をしてもらいたい。苦しみを何とか乗り越える努力をして現世での好転を信じ、最悪その頑張りは来世に繋がるのを伝えたい。
私の実名は非公開にしといてください。入力プロセスがよくわからず送信しました。
実名は非公開にした。ご安心を。
あと、ブログで自殺について言及すると言うことは、病について言及するのと同じだと言う視点を持つべきです。自殺をする人の多くが精神の病です。インターネットのブログで数十行で語れる内容ではないように思う。アンチコメントがつくのは当然です。不謹慎です。
自殺は病かどうかは論じてない、自殺をする人の診断はプロでさえ100%ではない。
“自殺が,ある日突然起こることはまずない.傍
から見ると突然に見えるような自殺でも,その人
なりのプロセスが進行して自殺に至る.そして,
自殺時には,約 90%の人が何らかの精神科診断
がつく状態であったことがよく知られている“
日本精神神経学会 精神経誌(2012)114巻 5号
特集 張:精神医療と自殺対策 553pg
診断がつく90%の人にも語りたいし、診断がつかない10%の人にも語りたい。
アンチコメントはあるから話題にしてはいけない話題ではない。
死にたい人の多くは精神の病だし、希死念慮は病状なので、死にたいといっている人は本当は死にたくないのです。自殺が多いことは社会の問題でもあります。個人だけの責任ではない。自殺についてブログに書くなら、自殺がなぜ起きるのか、何が原因で人が死を選んでしまうのか、ということを正確に知るべき。アンチコメントを返す人の一部は苦境にある上に、あなたの言動にさらに心を傷つけられています。言葉の使い方は大切です。あと、自殺についての認識が不正確ですよ。
前コメントへの返信と同じ。
本当は自殺しても天国に行けますよね?
コロナ渦で緊急事態宣言解除もあやふやな中、思う様に事が運ばす、唯一の生き甲斐を失い、人生の運が尽き、守護霊から死になさいと聞こえられたら不治の病に掛からなくても寿命が来たと言う事では。
そうなったら自殺しかないです。それが寿命です。
追い詰められた末の自殺は確実に天国に行けます。
西郷隆盛さんと乃木希典さんと小説家の有島武郎さんと三島由紀夫さんは自殺しても天国に行けましたよ。
もしかしたら、昨年自殺した俳優の三浦春馬君も天国に行けるかもです。
只、一昨年の登戸の通り魔事件の犯人の自殺は確実に地獄行きですがね。
そもそも道教と言う宗教は“天国”の概念はない、所謂“天国”は無いからである。
これについて以前に書き込みあり。
“自殺”の行為は“寿命”ではない。
寿命は自分の意志によらない死、自殺は文字通り自分の意志による死、一緒ではない。
追い詰められても自殺を選ぶのは良くない。
志しを以って生き続けることはとても大切であり、一日で長く生き現世の好転を信じ、最悪、来世の糧になる。
“人生の運が尽き守護霊から死になさいと聞こえられたら”について
聞こえているのは“思考”・“理性”、所謂“霊”ではない。
生きるとは“霊”と“魄”は一体であり、霊は別人格として捉えるのは間違いである。しかも“霊”は生きる原動力なので、“霊”の方から死を選ぶことはない。人は、死を選ぶのは、人の“思考・志し”とそれを具現化する“行い”。
因みに、別人格の霊はその人の霊ではなく“陰”に属する別モノであり、人を“守護”することなく、むしろ人を“死”に追いやるであろう。よって“守護霊”は間違いである。
コロナ渦の影響で自殺が多くなるのは仕方ないかも。
どうしても生きていても無理なら自殺してもやむを得まい。
自殺すれば楽になれない事は無いですよ。
その時は来世でもう一度やり直してもいいかも。
コメントは極めて無責任である。自殺はただのリセットボタンではない、どれだけ来世への悪影響があるのを軽視してはならない。
コロナ渦の自殺は経済的が主であるのであれば、日本の様に絶対的貧困ではなく相対的貧困であれば、世間は世知辛いと思うかもしれないが、世間は社会として手を差し伸べる公的機関は多々あり、フルに活用してもらいたい。一日で長く生き現世の好転を信じ、最悪、来世の糧になる。
希望をなくし死んだように廃人生活するのも自殺になるんでしょうか
希望がないのも多種多様なので、子供が巣立っての廃人、伴侶を無くしての廃人、裕福でも無気力の廃人もある。
廃人から出来れば脱却してもらいたいが、例え廃人生活になっても、生きるためには最低限の食事、衛生に気負配らないと長く続かない。廃人は自殺よりは糧になる、何故なら自分の意志でその体を維持しているその事実はあるから。
因みに、2016年11月15日の投稿
以前も話した、生きるのは自分を構成する34億の細胞に対しての責任と、来世を信じるのであれば、徳積みをして来世のためにある。
具代的に例をあげてみましょう。
陰陽で考えると、先ず平均寿命の真ん中として、人生前半と後半と分け、それに加えて自分に対しての意欲の有無と4つに分類が出来る。
一番向いている生き方はこうなる。
①人生前半で意欲が有る人は意欲にまっしぐらに進めばよい。特にアドバイスは無いが、ペースを上げすぎるとまた、周りの人に気を配らないと挫折をしやすい。
②人生前半で意欲が無い人は人と向き合うより自然と向き合あうことがよい。とくに物作り、研究がよい。なぜなら、自然は正直であり、そこから①になるように目標を見つけるでしょう。
③人生後半で意欲のある人は人間関係をよくするとよい。例えば、後世、子孫、後輩の育成に努める。何故なら、身体と精神にギャップがあり、無理をすると病気、怪我に繋がる。物理的に弱くなったことを認識する。
④人生後半で意欲の無い人は介護、また人の後始末に関わる仕事がよい。なぜなら、来世を信じなくても、無理なく来世の徳積みがで来る。目標がどうしても見つけなく、どうしても③になれなければこれが一番よい。
前世は天明の大飢饉で飢餓に耐えられずに自殺、前前世は応仁の乱で戦乱の状況に耐えられずに自殺、今世はコロナ渦の影響で自殺を検討中。
来世でもう一度やり直すしかないな。
早い所自殺して天国に行きたいな。
例え前世が“殺人鬼”、“王族の末裔”であったとしても全ての前世が具現化した現世なので、
”現世・今世を頑張ればよい”、道教は現世利益の強い宗教。
“来世でもう一度やり直す”ことは出来るが、自殺の場合+-セロのリセットとはいかない。
逃げるのは悪くないのでならば死に逃げるのは悪くないのではないでしょうか?
逃げていいと言う事は生きる事から逃げていいと言う事と同じです。
そして来世で再スタートすればいいんです。
前々世と前世と今世が自殺ならばさすがに来世はいい方向に行けるはずです。
以前の返事
逃げる事は悪いと言ってない、死に逃げるのは良くないと言っている。
何故なら、唯一逃げられないのは死、死から逃げる志しが大事。
因みに自殺はリセットボタンです。
だからコロナ渦で自殺数は確実に増えているんです。
日本では自殺数が多いのは自殺がリセットボタンだからなんです。
自殺はリセットボタンじゃない、リスタートボタンだ。
リスタートは、今状をベースに再度試みる。
リセットは、初期状態から、
全然違う。
日本の自殺数多いのは高い教育水準、高度な経済、相対的貧困など。
死に追いやるであろう陰に属する別モノは何ですか?
そんなもん居ない気がしますがね。
神様と守護霊に来世で良いところにいけるから早いとこ死になさいと聞こえられているんですから。
神様は“早いとこ死になさい”とは言わない、何故ならそれはもはや神ではなく“邪鬼”である。
守護霊はもしあれば“早いとこ死になさい”とは言わない、何故ならそれはもはやあなたを“守護”しない“怨霊”である。
陽に属する今世に生まれた人を来世に誘う(いざなう)のは陰に属するモノであり、聞いてはならない。
“1日でも長く生き好転を信じ、最悪来世の糧である”
絶対信じません。
そんなのインチキじゃないかと。
それなら1日でも早く死んだ方がましです。
不治の病に掛からなくても寿命が来ているので。
急の様なのでこのコメントを先に答えて、先のコメントは後に答える。
死ぬと“行い”は止まるのでそれ以上“糧”にならない、生きるこそ“糧”になる。
自分の意志で死ぬのは自殺、他の要因で死ぬのは寿命。全然違う。
寿命は何時、死ぬのかはかわからない、自殺は分かる。全然違う。
何時、死ぬのか分からないからコツコツと生活する。
何時、死ぬのが分かれば逆算できるので全然違う。
自殺について。
私も以前(約10年前)自殺を真剣に考えたことがあります。
いのちの電話や精神科医の助けを借りて、なんとか生き延びられました。
その時の経験から申し上げますと、自殺すると死後苦しむという考えは、あまり役に立たなかったような気がします。
少しだけ歯止めになったような気がしますが。。。
もちろん全ての人に効果がないと言う気はありませんが。
私が自殺したくなったのは、理屈で考えたことではなくて自殺衝動なので、死後苦しむから自殺をやめようという考えすらも、歯が立たないことを、私が体験しました。
自殺することへの罪悪感(周りが悲しむ)より、生きていることへの罪悪感(人に迷惑がかかる)が上回れば、罪悪感で自殺を阻止するのは困難だと思いました。
自殺しないことで人に迷惑をかけることをある程度許容することも、自殺防止には、いいのではないかと私個人的に思いました。
個人的な意見ですみませんが。。。
自殺をすれば楽になる、天国にいける、リセットになる、に対してそれは違うよと言いたい。論理的に考えても、死ねば楽になるのは安易だよと言いたい。
生きるためには人に迷惑を掛けてもいい。あなたの迷惑を受けてくれるその行為はその人の“行え”であり、あなたが罪悪感を持つ必要はない。社会制度を利用するのもそうと思ってもらいたい。
迷惑を掛けているその気持ちに真に報いるのであれば生き続けるのみ、自殺したらそれは出来ない。
自殺だろうが死んだらそこで終わりで前世も来世もないし輪廻転生とかいうのもないよハゲ
信仰は自由なのでどっちでもよいが、だが自殺を突き放す、または助長するコメントは良くない。
剃髪、または薄毛に対してのコメントでしょうか?両方?
データーはとってないが、輪廻転生を信じる人の薄毛の割合は一般人口と同じぐらいと思う、また道教の聖職者は剃髪をしない。
ハゲってただお前に対して言っただけだけど
メインの回答より長々書いてどうした?ハゲてるジジイ
ドンマイw
そっちか、個人か・・まじめにコメントした損。
個人的な内容は答えられないのごめんね・・・
こちらの勝手な制約なのでドンマイw(あ、長い・・)
コメント欄拝見しました。自殺を考えており身につまされる内容でした。
それでも、例え罪だと言われようとも私の希死念慮が変わりません。
幼少期より父母、年の離れた兄に虐待されました。(まだ殺されていない私が虐待だと口にするのは自分自身気がひける思いがありますが。)毎日3~12時間、1年中、罵詈雑言を浴びながら殴られました。私はおかしくなりました。8才の時には自殺するつもりで遺書を書いていました。当時は分かりませんでしたが、兄は精神障害があったんだと思います。私の事を汚い、汚いと言って毎日何時間も殴り続けるし、外に触れたものは全て汚いと言ってシャワーを頻繁に浴び、手を洗い、それを私にも強要しました。母親は私を殴っている兄を止めることをせず「もっとやれー」と殴る事を応援していたし、「お前は不幸の根源だ」「国語のテストで100点取れない奴は日本語を話すな」と言われ首をしめられました。両親は2人とも高校教師をしており、祖父母も教師でした。成績が良くなければ人間とみなしてもらえません。兄はIQが120以上、私はIQ104です。母が笑いながら悪口を言うんです、兄に比べて智子はIQが低いと。IQの数値まで兄妹間で比べられ悪口言われました。私は凡人ですが学年1番を取りオール5を取れるよう必死で努力しなんとか達成しましたが、結局人間として見てもらう事はできませんでした。何をしても人間として扱ってもらえません。お風呂にも満足に入れてもらえず、ごはんももらえず、学校の給食の残りを袋で持って帰って食べました。父からはナイフで刺されそうになりました。兄からは、今日は1日殴ってあげるから学校行かなくていいよ、と言われる事もありました。
まだ13才だった私は殺されたくありませんでした、生きたかったです。大人になるまで生き延びれば、きっと幸せになれるはずだ。でも、このままだといずれ殺されるんだろうな、と思うほど日々の暴力が酷くこの人たちが死ぬか、または私が死ななくてはいけないか、どちらかという所にまでになっていました。私は何も悪いことをしていないのに、毎日何時間も殴られ、この汚い家で本当は守ってくれるはずの実の家族に殴り殺される、それだけの人生は嫌だと思いました。実の家族に殴り殺される為、その痛み、体だけでなく精神的な痛みを味わって殺される為だけの命、人生だとは受け入れられなかったです。私が死なない為に、先に一番暴力をふるう兄に死んでもらおうと思いました。夜、兄が寝ている所に包丁を持って忍び寄ります。兄の上で包丁を構えた時、どうやって刺せばいいのか、どんな向きにして、どんな力で?分かりませんでした。すやすや眠っている兄の、寝込みを襲う罪悪感もありました。怖くなってそれ以上はできませんでした。私は訳も分からず、薬を大量に飲んだり、車道に飛び出してトラックに引かれようとしたり、学校には行かずにふらっと20キロくらい離れた場所まで自転車でいったり、柔軟剤を飲もうとしたり、一酸化炭素を吸おうと家で火を起こしたりしました。死にたいとも明確には思っていないけど体が勝手に死にむかっているみたいでした。ある朝起きると、スズメが鳴いているのですが、いつもならチュンチュンといっているのに、その日は「お前は生きている価値がないから死ね」といわれました。私の頭の1%程は、まだまともで、スズメが日本語を話すわけない、私は幻聴を聞いているのだと思いました。起き上がって歩こうとすると、床が私に「生きている価値のないお前が私の事を踏むな!」と怒ってきました。私は立って歩くことができなくなり、寝たきりになりました。家の外は大通りで、人々が楽しそうに声をあげて笑いながら歩いていました。15才で生育歴からも視野が狭かった私は、この世の苦痛のほとんどを自分が負わされ、その変わりにあの人たちは笑っていられるんだ、と、憎さと殺意をおぼえました。見ず知らずの通行人全員に対して。ちょうどその頃、無差別連続殺人が起きて新聞に関連記事が載っていました。私は、クラスメートが話すジャニーズの誰々が格好いい等の気持ちが全く分からず、新聞に載っている無差別殺人犯の言うことのほうが、良く分かってしまいました。これはやばい、私はおかしいと焦りました。自分のおかしさを物凄く認識しました。
一番辛かった時期はこんな状況でした。
そこから寮のある高校に進学し努力し、周りの温かい人たちと出会い、私の考えも人間性も変化しました。
しかし、高校を卒業して家に戻るとまた地獄でした。
一人で生きていく為に、家を出ました。通っていた大学を続ける為には風俗で働くしか、勉強時間と金銭面を両立させる事はできないだろうと思い、見学に行きましたが、私には無理でした。色々なことがあり、精神状況にも波があり、今、金銭的にも追い詰められています。私自身も辛い時期が長く続いていてしんどく、余命があと50年とするとクラクラします。行政にも迷惑をかけますし、蔑んだ目で見られます。綺麗事抜きに生きていても税金を食い潰すだけ、だれも私が生きる事を望んでいない、私自身も。人は追い詰められると理性をなくします。お金がなくなったら盗みをするかもしれないし、オレオレ詐欺で年配者からお金を奪うかもしれない。近所の生活保護受給者が、担当の市役所の職員を刺した事件もありました。自分の生に固執して人を傷つけるより、自死を選ぶほうが私自身は素晴らしいと思っています。人間の心が失くなって、人の形をした獣としていきるよりも、人の心を持っている間に死にたいと思っているのです。これは私が自分自身の場合で思っている事であって、決して他の人に薦めている訳ではありませんが、個人的なご相談として、これは間違っているでしょうか?
生きて恥をさらす前に死にたいのです。人のものを奪うような醜い自分になりたくないのです。死ぬのがどうして悪い事なのでしょう。私自身、死ぬ瞬間には、誰も恨まず何も恨まず、無理やりにでも笑顔でいようと思っています。
上手く死ねたら、臓器を病気で苦しんでいる人に提供できるかもしれませんし。
想像もできないほど悲惨な人生はある一方、想像もできないほど恵まれている人生もある。これは偶然の産物でしょうか。
恵まれているほど驕り(おごり)、恵まれていないほど羨む(うらやむ)それを少しでも“個別に”、または“共に”減らすのが“道徳的”であると、は道教の教えである。
こんにちは。
自殺について何度も真剣に考えたことがある者です。
聖天宮法師のお話にたいして、自殺を考える人をさらに追い込んでいる、逆効果だという書き込みが見受けられますが、これを書き込んだ方々が実際に「自殺しよう」と心の底から思ったことのある人々であるのか、私にはいささか疑問に感じました。
これは完全に個人的な意見でありますが、自殺をしよう、どうやって?どこで?と具体的に考えるようになった人に、「自殺しても楽にはならない」と、伝えることは決して、追い込んでいるというわけではないのだと思います。(本人がすでに自分自身を追い込めるところのギリギリまで追い込んでいる。)
少なくとも、私はこの考えに出会ったとき「救われ」ました。崖の端に立って、この崖の上での生活は辛すぎるからと、飛び降りてやろうと思って下を覗いてこの先に何があるだろう?と考えていたときに、「この先により大きな苦しみが待っている」と言われたことで、ええ、たとえそれが、”科学的根拠のない、ただの可能性の話し”であったとしても、、それならばと、飛び降りても地獄、ここにいても地獄…。状況は変わらないのだから、ここで足掻く他ないのだと思えたのです。
結局どこかで向き合わねばならぬ。それがあとになるか、今か。
そうして、私は崖に背を向け、初めて”本当の意味で”人生に対峙したのです。この先で、千の矢が降ってこようと、真っ向から受け止めてやる。そう、思えたのです。
人間、落ちるところまで落ちると笑えてくるんですね。比喩ではなく、人は絶望すると笑う。脳科学的な原因は分かりませんが、一因としては安心するんですかね、心の底から。落ちるところまで落ちると、もう落ちるところがない。そう思うと、自分の状況、考え、全てが心の底から可笑しくって、楽しくてしかたがないというふうに笑えるから不思議です。
一度、不思議な経験をいたしました。苦しみ、嘆いて悲壮的な思いになったとき、空(くう)に向かって叫んだことがあります。「こんな不平等な世界を作ったのが、神ってんなら、私が死んだらぶん殴りに行ってやる!!」って(お恥ずかしい)
そうしたら、笑われた気がしたんです。誰かに。そうして頭のなかに返事?のような声のような、いいえあれは「思考」でしたね、それが返ってきました。
その声はとても優しく、慈愛に満ちていました。(当時の私は慈愛という言葉もまだ知らぬ子供でした)
「いいよ、いいよ。何時でも来なさい。いつまでも待ってるからね。一発と言わず気がすむまで殴れば良いさ。ただ、それまでは”ちゃんと”、生きて。生きてそれから、ゆっくりと来なさい」
その返事を聞き、体から力が抜けるのが分かりました。責める気持ちが急速にしぼんでいきました。
それから暫くして、「公平、不公平」というのは人間の作った価値観で、神はこの世界を、別にわざと人が苦しむように創ったわけではなく。
世界も自分という存在も、ただ、そこに在るだけなのだということがわかり、神にたいして不満?は失くなりました。人は現実を観て幸・不幸を判断し、喜んだり苦しんだりしている。けれど、実際は幸福なことも不幸なことも起こってはいなかった。
幸・不幸を判断することを辞めたとき、世界は「静か」だと気がつきました。
この世に人を裁く存在は、実際には居ないのだと、思います。ただ、学ぼう、成長しようと生まれることを自ら選択し、その先で待っていた試練に苦しみ、受け入れられず、結果的に自殺をして人生を辞めたとき、一番後悔するのは誰だと思いますか?そうなったとき、人は誰を責めるでしょう。自分がいなくなって心の底から苦しみ、嘆いている生前の親しかった人々の姿を見て、誰を責めるでしょう。
そう考えたとき、結局のところ自分を裁くのは自分自身になるのではないかと推測出来るかと思います。
だから、宗教では「死ぬと苦しいよ」と伝えているのではないかと今では考えています。
長く拙い文章を読んで下さり、有り難うございました。
色々な捉え方もあると思うが死の淵からもう少し何かできないのかを考えてほしい。
自分の意志で死を選ぶのなら、生を選んでも同じではないか。
今まで出来たことを捨て、今できることだけをすればよいではないか。
死の淵から引き返す根拠について
貧困の国より裕福の国の自殺率が高い(以前コメントした)。
障害をもって生まれ来た子、毒親のもとで生まれた子は悲観して自殺はしない(以前コメントした)。これがリスタートボタンのカラクリ。
※リセットとリスタートの違いについては前コメントで話した。
死ねば今の辛い記憶はなくなるが自殺することにより来世はより不利になる、例えば貧困な国で生まれる、肢に患持ち、毒親の元で生まれるなど。
死んでからではなく生きているうちに自分でリスタートボタンを探してもらいた、この行為こそ道徳的と言いたい。来世の自分を自分の子供として思うように頑張ってもらいたい。
今は“底だ”と思っても世界は広いので底のよりさらに底もあるのでなるべく自殺を避けてもらいたい。
平等について
また、パンドラの箱をあけるようであまりコメントはしたくないが、“平等じゃないと生きていられない?”
以前コメントした、“神は公平(平等)であるが、人は短命な存在なのでそうは感じない。”
“平等”は短命な人が作った社会の概念、主観の塊、教育の弊害。
教育は“平等”を教えてくれるが、構造上、“不平等”は教えない。残念ながら“不平等”は世間から学ぶことが多く、特に苦しんでいる人ほど。では“不平等”はなぜ起きるか、これも短命な人がゆえ(投稿2017・1・8)(投稿2016・1・7)、基本的に誰が悪い訳ではない・・・
今世で辛い人生を送っている人は前世での業が悪く、その罰を受けていると思っているのですがどうなのでしょうか。
自身、自分の存在をなかったことにして新しい生命体で人生をやり直したくて死にたいとずっと思ってます。辛いことを乗り越えて耐えて天誅を全うした人も、耐えて耐えて耐えて、限界を迎えて自ら死を選んだ人も対等に褒め称えられるべきだと思うのは間違いなのでしょうか。
辛いはさまざまがあり、“耐えて耐えて耐えて”もさまざまある。
限界もさまざまがあり、“褒め称え”る内容もさまざまある。
これだけは自殺する人に考えてもらいたい。
①衝動ですか?今先、受けた辛さか?
②夜ですか?夜は心細い、陰が多い時間帯か?
③知り合いと話したか?これはもろ刃の剣と思ってもらいたい。余裕のある人は受け止めてくれるかも、余裕のない人は逆に引かれる。試す価値ある。
④公的窓口と相談したか?これは難しいのは相手は他人、よって1回だけでは諦めない。
コロナけれど3回足を運んだか?
1回は事務的にあしらわされる、
2回は印象に残る、3回でやっと共感してもらえる。願わくば1回で共感してくれるかも、
特に今はコロナだから可能性はたかい。
以上の行動は修行と思うこと、設定された所で“滝行”だけが修行ではない、人生はそう綺麗ではないから。
以上の行動は自分への徳積みと思うこと、設定された所で“ボランティア”だけが徳積みではない、人生はそう悠長ではないから。
人は皆、平等ではない。
産まれたときから死をむかえるまで。
壁にあたるとき不平等を受け入れるのか不平等に嘆くのか。
大きな差が生まれるのは言うまでもない。
ポジティブネガティブ・前向き後ろ向き・表裏一体。言葉は必要だけれど意味を成さない時もある。
自身に不幸が訪れたとき誰の言葉も受け入れることが出来ない。
時間だけが解決してくれる。
それが1週間なのか半世紀なのかは自身次第。
その後は後悔との戦いもまっている。
楽しいことは忘れてしまうが不幸な出来事は時間がかかる。
前世など皆無であり言葉にも不信感を感じる。
カッコいいコメントかもしれないが・・・
時間は必要かもしれないが時間だけでは何も解決しない、そう甘くない。
納得(法律手段)、許し、あきらめ、開き直り、自分で意識と行動をもって前へ進むしかない。
“後悔をする必要はない”、後悔より同じ轍(てつ)を踏まないこと。