人の善意は所詮人レベル

人は有限なので人の善意は所詮人の主観を色濃く反された限定的なものである。
行き過ぎた善意は大抵長続きはしない。特に政治の上では他人を批判する本人たちも同じ立場に置かれると批判される側に立たされる。人の善意は所詮そう多くはなく、立場で簡単に変わるものだ。

民主主義は所詮バーチャル

一番民意を反映するとされる民主主義の最大の”善意”でも10の3が限度であり、リアルに落とさないと所詮バーチャルである。
現在の民主主義のような10の10の争いでは成り立たない。
有限である人が10の10を掲げ、民主主義を語るのは所詮無理がある。
せめて実現できる”善行”10の2以下にしないともたない。

善意と比べ善行は絶対的に低効率

”行え”が100%”善意”であっても10の3。それを”善行”にするとまた更に効率が悪い。
前回述べたが、よくて3の2。
”善意”はいわばバーチャルの世界、”善行”はそれをどこまでリアルな世界の落としこむのが大事。ただ、よかれと思うことが逆に働く場合もあるので注意。
例えば子のために仕送りしたが、それを子が遊びに使ってしまうとか。しかも子に”あんたのせいでグータラになった”とか。男女関係はヒモ、社会保障は不正受給、国家政治はチェンバレンとヒットラー、中国と北朝鮮などなどにも当てはまる。

社会10の2は個人10の2より

個人の1/3は活動、1/3は寝る、1/3は”行え”は社会にも当てはまる。
1/3は”意思疎通”、1/3は”基礎維持”、1/3は”政治”になる。

社会の1/3”基礎維持”はインフラ維持など、個人の眠るに等しい。

社会の1/3”活動”は集団としての”意思疎通”と統制、個人で置き換えると身体の制御。民主主義は民意、独裁者は1人の決断で全員が従う。

社会の1/3”政治”は社会として何を目指す。個人の行え。

政治、民主主義も独裁者も平均66点の合格点をつけると個人の集合体である社会も結局10の2の法則に合致する。

個人の10こそ8と2

老子曰く:
人生の10の3は生きるため、10の3は死ぬため、10の3は死に場を変えるため。

すなわち、1/3は活動、1/3は寝る、1/3は”行え”。
”行え”が全て善意であっても全てが”善行”になるわけではない。凄くシンプルな例えとすると、美味しい料理を作ってもゴミは出る、熱を使うなど。一般的に考えても善意3の3でも善行は3の2で精一杯。よって3の1の”行え”とその3の2が善行と考えると約10の2が人の”善行”の上限であろう。

8の覚醒と浸食、2の維持

8に含まれる安い資源は干からび、8に含まれる安い労働は目覚め、民主主義の2を維持するのはだんだんと難しくなりつつある。

自然の懐は無限なので資源の枯渇は技術革新で乗り越えるが安い資源は無くなり2を維持のためにどんどん効率の悪いものになる。
安い労働はのAI、ロボティクスで乗り越えるがただ労働のハードルを上り、専門性の知識がないと職につけなくなる。2の維持の為なのに2から脱落者を生む。